2014/06/10

K 22

06 K22

Lichtenberg 今回はほぼ一直線の散歩ライン。当たった数値にはたまに行く巨大ベトナムマーケットがあって、そこでしか売ってない肉まんを久々に食べたいなぁと思い、買い物がてら出かける。

 

Herzbergstrasse 01

 

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元郵便局だった建物でこれから改築して住居になるらしい。この建物は重要文化遺産になっているので外観はそのまま残されるけど、いわゆる高級集合住宅になるみたい。

 

K22 Lichtenberg01

 

Herzbergstrasse 03

シュタージ、言わずと知れた東ドイツの秘密警察 http://www.stasimuseum.de/en/enindex.htm

 

Stasi 14

東ドイツ人口の一割以上が秘密警察に拘っていたと聞くと、本当に気味悪い。今では旧東出身の人は自分のファイルを閲覧できるようになっている。友達のお父さんの記録を少し見せてもらったことがあるけど、何時、どこで誰と会って、お店だったら何を注文したかまで記録されている。しかも至近距離から隠し撮りされた写真付き!友人のお父さんみたいな、一般市民までも徹底的に調べ上げるその労力を他に使えなかったのだろうか?

 

Stasi 15

今回は中に入らなかったけど、以前訪れた時に撮った写真。シュタージの局長、ミールケの部屋。

 

Stasi 16

 

Stasi 18

シュタージから話は逸れるけど・・・、

壁崩壊寸前、全ての始まりであるハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去したころ10代後半だった別の友人は、その当時つきあっていた彼が多くの東ドイツ人同様西へ逃亡することを決心したのに対し彼女は残ると決めたので、お互いの人生を尊重し別れざるをえなくなった。彼を見送る為、というか一生のお別れをする為、最後に二人でハンガリーにある西へ逃亡できる森へ出かけたという。

いくら西へ逃亡するチャンスが訪れたとはいえ、いつまた取り締まりが厳しくなるか分からない不安定な状態だったことはたしか。そんな中越境するってことは家族や友人とは二度と会わない決心をするということで、彼らが森の中でお互いぜったいに振り向かないよう約束し別々の方向へ歩き始めたという話は、それだけで映画が一本撮れる。

 

友達がそんな経験をしてるころ私は何をしてたか思い返してみると、高校で体育の時間に三保の松原という絶景な砂浜をブルマ姿でぜぇぜぇ言いながら走ってたことがまず浮かぶ・・・。国が違う。それだけのことだけど同じ10代後半でもこんなに違う人生があるんだなぁと深々思う。日本で何不自由なく育った私には旧東の人と話すと多々驚くことがある。

 

Herzbergstrasse 13

 

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ベトナムマーケット。ベルリンに引っ越してきた時あきらかにハンブルクよりもベトナムインビスが多いので、小腹が好いた時にフォーを手軽に食べれるようになって有り難かった。そしてここを初めて訪れた時に、東ベルリンは違う国だったんだってことを改めて気づかされた。

 

Herzbergstrasse 08

この市場について調べみると、労働者として東ドイツへ渡って来たベトナム人の多くはドイツ統一後、職を失ったらしい。ある者は祖国へ帰りある者は留まった。そして残った人の多くは商売人になり、後にここを創設することになった人は衣料品をいつもポーランドから買い付けていた。その買い付け先でベルリンから来る同胞の同業者によく会った彼は、どっちにしろ皆同じ所から来るんだったらベルリンに問屋を作ればいいじゃないか!と思ったのがそもそもこのマーケットの発端だったらしい。

今はリトル・ベトナムじゃないけど、全てがそろう市場になってて彼らの情報交換の場でもあるんだと思う。

 

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Herzbergstrasse 12

 

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Herzbergstrasse 11

 

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マーケットの奥には工場や放置された廃墟などがある。

 

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Herzbergstrasse 02

そうだ、ドイツ統一後シュタージの職員は失業したわけで、彼らはその後何になったんだろう?と思って友達に訊いたら、多くが不動産業よ!だって。ふむ。この辺のことはいつかまた調べてみたい。